おたる坂まち散歩 馬追坂 前編 ニシンの群来た浜

公開日 2020年10月27日

更新日 2021年01月14日

おたる坂まち散歩

馬追坂

国道五号のバス停「桂岡」から札幌方向へ行くと、銭函川に沿って下る坂があります。この坂は昔「馬追坂(うまおいざか)」と呼ばれていたそうです。いまではこの坂の名を知る人も少なくなったようです。
 坂を下り始めるとすぐ、左手から坂と交わる道があります。この道路の名は市道軍用線といいます。この道は、日露戦争のころ、小樽が海上から攻撃されたときのために連絡道路として作られたものです。地元の方は軍人道路とも呼んでいます。
 馬追坂をさらに下りていくと、やがて函館本線の踏切を越え、日本海が目の前に広がっています。銭函の海岸は、かつてニシン漁で栄えました。網元の家に生まれた銭函 2丁目にお住まいの方に当時の様子をお伺いしました。
 この方によると、大正から昭和初期にかけて、銭函は浜が一面ニシンで埋もれるほどの豊漁でした。特に大正11年に、他の網元より早く3月17日に建網を入れたところ、記録的な大漁で、その年、当時のお金で 三千円という利益を上げました。
 この方が母親から聞いた話では、銭函の浜にニシンが群来(くき〜産卵のために大量にニシンが岸に押し寄せること)、毎日後から後から押し寄せるため、先に来たニシンがなぎさで腐ってしまったほどだったそうです。
 不思議なことに、余市でニシンが捕れたとの知らせの二、三日後には銭函でもニシンが捕れはじめたそうです。

馬追坂の地図

当時は銭函から張碓駅辺りにかけて、ニシンの番屋が並び、漁の時期になると網元たちはそれぞれ決まった場所に建網や刺し網を仕掛けました。張碓駅周辺は特に好漁場でした。
 明治13年に、札幌・手宮間に鉄道が開通します。銭函の海岸線のそばに鉄路が敷かれました。たまたま、そのころニシンが不漁だったせいで、汽車の通る振動や警笛の音に驚いてニシンが寄ってこないと、怒った漁師たちが張碓のトンネルを閉鎖するなどの騒ぎもあったそうです。ニシンの豊漁は昭和9年までで、その後ニシンは捕れなくなりました。ニシンの豊漁を夢見て網を入れ続けた網元の多くは没落してしまいました。列車の窓から見える海岸の風景に、昔のニシン漁の様子をしのんでみてはいかがでしょうか。ニシンの豊漁は昭和9年までで、その後ニシンは捕れなくなりました。ニシンの豊漁を夢見て網を入れ続けた網元の多くは没落してしまいました。列車の窓から見える海岸の風景に、昔のニシン漁の様子をしのんでみてはいかがでしょうか。

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