祝津鰊御殿と日和山灯台&クルーザー


浄応寺の坂  後編

 坂の名前の由来となった浄応寺境内に足を踏み入れると、正面に本堂があり、屋根の優雅な曲線がまず目を引きます。この本堂は、明治42(1909)年の手宮の大火で先代の本堂が焼失した後、大正9(1920)年に再建されたものです。このように小樽では、昔は大火がよく起こり、乾燥して強風の吹く春先が最も危険な季節でした。
 昭和31(1956)年の春、異常乾燥注意報が発令されていた5月3日午後4時35分ころ、色内小学校屋内石炭小屋か浄応寺の坂ら出火。火は南西の強風にあおられ、またたく間に校舎を全焼し、付近の民家や坂の上にある石山中学校をも、その炎に包んでいきました。中学校の真下にある浄応寺では、本堂の屋根瓦が炎の放射熱で熱せられ、瓦の下の木がくすぶって煙を立てはじめました。寺が燃えたら、そのすぐ下から木造の長屋が並ぶ手宮方面に火災が広がるのは必至です。寺に駆けつけた安達市長は、燃えさかる石山中学校をあきらめ、手宮への延焼を防ぐために本堂を全力で守ることを消防関係者に命じました。
 消防団員たちは屋根によじ登り、瓦をはぎ、その下に注水。寺では、水浸しになった本堂から仏具や畳を運び出し、住職の奥さんが、両手を真っ赤にして炊き出しのおにぎりを握りつづけました。札幌からの応援の3台を含め、23台もの消防ポンプ車が投入された大火は、午後7時15分にようやく鎮火し、寺と手宮はかろうじて守られたのです。
 柳の揺れる境内にたたずむと、この地を見舞った災難と、それに立ち向かう人々の戦いがあったとは信じられぬほどの静けさです。

浄応寺

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