小樽ゆき物語


いなりの坂  後編

 いなりの坂を下りると左に、「ちどり公園」があります。その中には「朝里学校教育発祥の地」の碑が建ち、明治9(1876)年にこの場所に開かれた朝里教育所が、現在新光2丁目にある朝里小学校の始まりであったことを伝えています。
 明治9年といえば、北海道大学の前身である札幌農学校が開校した年。教育所の前に線路が敷設され、弁慶号が初めて走ったのはそれから4年後のことでした。小さな漁村であった朝里の人々が早くから教育に対して特別な思いを寄せていたことを表すものです。しかし、朝里の教育はさらに過去に、意外な出来事から始まっているのです。
 年号が明治に改まってまだ間もない明治2年9月のある朝、朝里の沖に、何十隻もの船が前触れもなく出現。船上には、刀を腰に差した大勢の武士の姿が見えます。浜は騒然となりました。
 続々と浜に上陸してきたのは、元会津藩(現在の福島県)の藩士でした。彼らは戊辰(ぼしん)の役で官軍に敗北し、明治政府から北海道に移住を命ぜられたのです。その後も、藩士とその家族の上陸は続き、総勢約3000人にもなりました (※)。いなりの坂
 これら藩士の中には、後に小樽初の代書人(現在の行政書士)となった渡辺竹八(わたなべたけはち)のように、朝里の漁師の子どもたちを集めて寺子屋を開くものも現れました。
 その後、明治4年に藩士の多くは今の余市町に集団移住しましたが、後に量徳小学校となる小樽教育所の志賀熊太郎(しがくまたろう)所長のように、小樽に留まって教育者となった藩士も多くいました。これが小樽の教育の源流の一つとなっているのです。
 海を見下ろすいなりの坂の上には、大正9年までの33年間、朝里小学校校長を務めた町田外也(まちだそとや)先生の頌徳碑(しょうとくひ)が建っています。朝里小学校の同窓会では今でも毎年、この碑の前で町田先生をしのぶ集まりを開いていますが、朝里の人々の郷土と教育に寄せる思いの強さを感じさせられます。

(※)旧会津藩士の上陸については、その第一陣の到着が明治2年9月21日、アメリカ船コユール号によるものだったというのが通説となっています。

取材協力:朝里郷土史資料調査研究所朝里学校教育発祥の地の碑

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