小樽潮まつり


地獄坂と小樽商科大学

 小樽で地獄坂というと、前号で紹介した小樽警察署前の坂のほかに、小樽商科大学に至る商大通りがあります。明治45(1912)年2月23日の「小樽新聞」には、この通りが地獄坂という名で登場しています。
 この地獄坂の名の由来は、小樽商大の草創期の歴史と切り離すことができません。
 小樽商大の始まりである第五高等商業学校が開校したのは明治44年。まちを挙げての学校誘致の成果でした。12000坪の敷地は地主たちが寄付し、建設費37万円のうち20万円は小樽区債により賄われました。小樽区の年間予算が30万円でしたから、この金額がいかに巨額だったかが分かります。
 渡辺龍聖(わたなべりゅうせい)が初代校長として着任したのは同年2月。当時は緑第一大通りから上には家がなく、「荒涼たる無人境の観」があったと彼は記しています。
 地獄坂の深い雪をこいで上り、たどりついた渡辺校長が見たのは、校舎に黒板、いすや机すらないありさま。今後の苦難が思いやられました。地獄坂
 開校当初は教授、学生の住む家もなく、教授陣は直行寺(じきぎょうじ)で合宿し、学生は雨天体操場を仮寄宿舎として生活し始めました。全国から集まった一期生72人は、冬は深い雪の中を泳ぐように、そして夏は暑さに汗をかきながら、坂を上って通学しました。こうして学生を苦しめた坂は、開校当初から地獄坂と呼ばれるようになったといいます。
 渡辺校長は、欧米への留学経験も生かして、全国から優秀な教授陣と諸外国から外国人教師を集めました。これらの教授による実践的な商業教育と優れた外国語教育が評判になり、小樽商大の名は次第に全国に知られるようになりました。
 時は流れ、新しい校舎が次々と建てられました。昭和56年には旧校舎が解体され、創設以来の建物はすべてなくなりました。唯一、ギリシャ神話にちなんで「ヘルメスの杖(つえ)」と呼ばれる、旧校舎本館の屋根にあった避雷針が大学会館に展示され、開学当初をしのぶよすがとなっています。

取材協力:小樽商科大学 倉田稔教授

小樽商科大学旧校舎

地獄坂の地図

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