小樽ゆき物語


地獄坂とカトリック富岡教会 前編

 小樽商大の学生たちが地獄坂と呼んだ商大通りを上っていくと、右手にカトリック富岡教会があります。古くから開けた港町小樽ならではの異国情緒ある教会は、道路から奥まったところに建ち、ゴシック様式の端正な姿を見せています。
 観光客にも親しまれているこの教会の完成は、昭和4(1929)年。同年6月には、キノルド司教による献堂式が行われました。それに先立ち、2月11日、ソラノ・デンケル師というドイツ人青年司祭が、神父として小樽に着任しました。当時の教会の様子を「荒地に囲まれた薮丘(やぶおか)の上に、何の装飾もなくぽつねんと立っていた」と師は書き残しています。
 師の着任当時、教会には125人の信者がいました。昭和9年には教会の隣にマリア幼稚園(現在の藤幼稚園)が建てられました。この幼稚園には石原慎太郎・裕次郎兄弟も通ったということです。
 教会の中央にそびえる鐘楼の中にある鐘は、「お告げの鐘」と呼ばれています。この鐘は、はるか異国の地、日本へ布教に赴いた息子のために、デンケル師の父が、ドイツのふるさとの村で寄付を募り、昭和6年に富岡教会に贈ったものでカトリック富岡教会す。この鐘は、以前は朝・昼・晩と1日3回打ち鳴らされ、市民に親しまれていました。
ソラノ・デンゲル神父 戦後、昭和22年までの18年間、小樽で布教活動をしたデンケル師は常に笑顔を絶やさぬ人柄で、信徒の信望も厚かったといいます。しかし、第二次大戦が始まると、同盟国のドイツ人である師に対しても憲兵や特高警察の尾行が常に付くようになりました。また、師の留守中に机の中が調べられたりすることもありました。外国人であることが目立たぬように、司祭館の表札や、町内会の回覧板に、名前を「空野伝ェ門」と書くなど、師にとって息の詰まるような日々が続きました。
 日本の戦況が思わしくなくなったころ、教会につらい知らせが入りました。それは、教会の鐘を、武器を作るための金属として国に供出せよとの命令でした。神父はひそかに一つの決断をします。

取材協力:カトリック富岡教会主任司祭 新海雅典氏

地獄坂の地図

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