小樽ゆき物語


地獄坂とカトリック富岡教会 後編

 地獄坂の途中にあるカトリック富岡教会の「お告げの鐘」は、昔はこの鐘の音を元に時計を合わせる人もいて、広く市民に親しまれていました。
 第二次大戦が始まり、戦況が思わしくなくなったころ、教会にも鐘を供出せよという知らせが入りました。この鐘は、ドイツから赴任して間もなかった青年神父ソラノ・デンケル師の父から昭和6年に贈られたもの。供出の知らせを受けたデンケル師の苦悩は深かったはずです。
 鐘は鐘楼から降ろされ、供出を待つばかりに。当時を知る人も少なく、真相は明らかではありませんが、追い込まれた信徒たちが敷地内に穴を掘り、鐘を隠す準備をしたとも伝えられています。
 昭和20年8月15日、終戦。鐘は救われました。この日はカトリック教会にとって、聖母マリアの魂が天に昇った『聖母被昇天(せいぼひしょうてん)の祭日』に当たり、マリアさまによって鐘が守られたのだと信徒は感じました。しかし、長かった戦争で疲れ果てた教会の信徒たちに、高い鐘楼に鐘を戻す力は残っておらず、鐘は教会の玄関脇に置かれたままでした。
 終戦後、小樽港に進駐軍の兵士たちが上陸してきました。その中に、教会を訪れ礼拝する一人の水兵がいました。玄関に置かれた鐘を見て、事情を知ったその水兵は、船からロープと滑車を持って仲間たちと教会に来ました。水兵たちがトーマス・ビビット力を合わせて、再び鐘は鐘楼に吊り上げられたのです。
 終戦から半世紀以上が過ぎて、戦争の記憶も薄れかけた平成13年5月、アメリカ・サウスカロライナ州から一人の老人が教会を訪ねてきました。80歳になるこの老人の名はトーマス・ピピット。鐘を鐘楼に戻した元米海軍兵士その人でした。
 若いころ訪れた小樽で、仏教の国と思っていた日本にカトリック教会を見つけて驚いたピピット氏は、地元の日本人信徒に交じって礼拝に通いました。帰国後、高齢となり「天に招かれる前に小樽の教会をもう一度見ておきたい」との思いからの小樽再訪だったのです。教会の鐘を自らの手で鳴らし、満足して帰国したピピット氏は、その年の年末に亡くなったそうです。
 8月はあの痛ましい戦争が思い起こされる季節。広島、長崎に原子爆弾が投下された6日午前8時15分と9日午前11時2分、そして終戦の15日正午に、今年も平和への願いを込めて教会の鐘が鳴らされ、地獄坂かいわいに響きわたります。

取材協力:カトリック富岡教会主任司祭 新海雅典氏
写真提供:朝日新聞

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