冬の小樽運河


観音坂 前編 幻の鰊御殿(にしんごてん)

 忍路の集落は、日本海に突き出す半島に深く食い込んだ忍路湾に面しています。この半島を竜の横顔に見立てると、東側のカブト岬が竜の上あごになり、西側のポロマイ岬は下あごになります。この下あごの付け根を横切る坂道が観音坂です。
 観音坂へは、忍路神社の向かいの道を数軒ほど進み、左に曲がります。道は人家が途切れる辺りから山道となって、緩やかに右に曲がって上りとなります。振り返ると、目の前に広がる忍路湾の風景。そして、五分ほど歩くと峠に着き、その左手の林の中に小さな観音堂があります。これが坂の名の由来となっている徳源寺忍路観音堂です。
 忍路湾は、幕末の探検家松浦武四郎(まつうらたけしろう)の『西蝦夷日誌(にしえぞにっし)』に「ヲショロはウショロにして懐の事なり。此処(ここ)懐の如(ごと)く湾に成しゆえ名付く。…如何(いか)なる風だにも危うきことなし」とあるように、波の穏やかな入り江です。かつてニシン漁で大いに栄え、その様子は江差追分に「忍路高島及びもないが」と歌われたほどでした。この忍路のニシン漁を支配していたのが近江八幡の西川家です。
 明治22年11月、忍路神社の隣に西川忍路支店が完成。間口30間奥行き12間の2階建て、礎石には瀬戸内海から運んだ御影石を使い、黒壁に瓦屋根の造りは鰊御殿の名に恥じない豪壮さでした。この建物は、支店総理代人大場庄観音坂兵衛(おおばしょうべえ)の本店をしのぐばかりの権勢を示すものでもありました。しかし、この威容も長くは続きません。
 わずか半年後の明治23年5月11日、隣村の蘭島村の民家から出火。南南西の強風にあおられ、火は観音坂の峠付近にあった物置小屋に燃え移り、さらに忍路の集落にも襲い掛かりました。
 消火の応援に蘭島へ駆けつけていた忍路の漁夫たちは、火が忍路に飛んだとの知らせに、急いで観音坂の峠へ戻りました。しかし彼らの目に映ったのは、火の海と化した忍路の姿だったのです。
 忍路の220余戸は、10数戸を残し、3時間のうちに燃え尽きました。忍路支店の建物も灰じんに帰しました。権勢を誇った大場庄兵衛も同年8月に解職され、忍路を去りました。
 観音坂から眺める忍路のまち並み。今では往時の繁栄と鰊御殿の豪壮な姿がまるで幻であったかのような静かなたたずまいです。

参考資料:須磨正敏著「ヲショロ場所をめぐる人々」

観音坂の地図

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