小樽ゆき物語


紅葉橋の坂 後編 公会堂と市民会館

 於古発川に架かる紅葉橋から、小樽公園に向かって上ると、右手に公会堂が建っています。雪国には珍しい瓦屋根は、見上げると、まるでお城の天守閣のような威厳すら感じさせます。
 公会堂は、明治44年に当時皇太子であった大正天皇の本道行啓の際の宿泊所として、海運商の藤山要吉(ふじやまようきち)氏が建造して寄付したものです。
 公会堂の向かいには市民会館があります。市民会館は建てられて、今年で41年目になります。しかし、当時盛んに使われた、打ち放しコンクリート工法を取り入れたデザインは、今でも新しさを失っていません。
 建築方法や規模の違いから、全く異なった印象を受ける公会堂と市民会館ですが、市民会館の建設に当たっては、公会堂の存在が深く関わっていました。
 公会堂の建物を正面から眺めていると、明治44年の建築時からここに建っていたかのような静かなたたずまいです。しかし、最初は現在市民会館がある場所に建っていました。
 公会堂は、戦後の一時期、樺太などからの引き揚げ者の寮として使われました。その後、さまざまな会合や催しに利用紅葉橋の坂されるようになりましたが、昭和30年代に入り市民生活が落ち着くにつれ、より大きな施設が必要との声が高まってきました。
 そこで、新しい施設の建設用地が問題となりましたが、最終的に昭和35年に公会堂を現在地に移築して、その跡地に建てることになりました。当時で3億1000万円という巨額の建設費が掛かりましたが、市民による市民会館建設協力会が結成され、現金で3800万円、舞台のどんちょうなどの現物で1200万円もの寄付が集まりました。こうして昭和38年11月3日、文化の日に市民会館は完成しました。
 ところで、市民会館の海側にある階段の脇に、堂々としたポプラの木が立っているのにお気づきですか。このポプラは、建築の支障となるため切り倒される予定でした。しかし当時の安達与五郎(あだちよごろう)市長が「木を切るな。建物の方で工夫せよ」と設計変更を命じ、木を保存させました。当時を知る人には、この木を市長の名前から「与五郎のポプラ」と呼ぶ人もいたそうです。

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