小樽ゆき物語


見晴らし坂 前編 旧板谷邸と「坂の上の雲」

 観光客でにぎわう堺町通り。通りの山側に沿って急ながけが続いています。ふうど館の向かい小路に入り、突き当たりから右に曲がると、がけに沿って上っていく細く急な坂があります。
 坂を上っていくと、途中に数本の木があり、冬枯れの枝に残る実からキリの木だと知れます。上るにつれて、港と石狩湾が立ち上がってくるように展望が広がります。これが「見晴らし坂」です。
 坂を上りきると、右手には高い石塀を巡らした立派な門構えの屋敷があります。約1500坪の敷地のこの屋敷は、海運業で財を成した板谷家が昭和2年に建てたものです。施工業者の大虎は当時一流の建築業者で、公会堂なども手掛けました。この屋敷は平成11年に売却され、現在は所有者が異なるため、ここでは「旧板谷邸」と表記します。
 初代板谷宮吉(いたやみやきち)氏は安政4(1857)年、現在の新潟県生まれ。14歳で北海道に渡り、商店の奉公から努力の末独立し、信香町に荒物雑貨店を開業しました。その後、精米、しょうゆ醸造など多くの事業を手掛けました。戦後まで製造の続いた板谷醸造部の「イ印のしょうゆ」を懐かしく思い出す方も多いのではないでしょうか。
 板谷家ではこれらの原料を郷里の新潟から運ぶため、明治26年に小型汽船を購入。これが海運業に乗り出すきっかけです。その後、船舶を購入し事業を拡大していきます。見晴らし坂
 板谷家の転機は、明治37(1904)年に始まる日露戦争の時に訪れました。
 日清・日露戦争を描いた司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」。物語に登場する旅順港閉塞(へいそく)作戦は、ロシア太平洋艦隊を旅順港内に閉じこめるため、借り上げた民間商船を港口に爆沈させて障害物にするというものでした。同年3月、二度目に行われた作戦で沈められた4隻の商船のうち、「米山(よねやま)丸」「弥彦(やひこ)丸」は板谷の誇る英国製の船でした。
 2隻の損失に対して戦後政府から支払われた補償金により板谷の海運業はさらに発展します。
 旅順港閉塞作戦の翌年の明治38(1905)年5月27日、東郷平八郎が率いる連合艦隊とロシア・バルチック艦隊が対馬沖で死闘を繰り広げた「日本海海戦」から今年でちょうど100年。
 坂の上から眺める春の日本海は、同じ海でそのような激戦があったとは思えない穏やかさです。

見晴らし坂の地図

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