小樽ゆき物語


馬追坂  後編 幻の銭函運河

 国道五号から銭函川に沿って下る馬追坂(うまおいざか)。坂の名は、かつてこの坂が人馬の往来でにぎやかだったことをしのばせます。銭函は昔から交通の要所としてにぎわいました。
 幕末の安政4(1857)年、切り立ったがけの続く小樽から銭函までの海岸に道路が開削され、また銭函から札幌を経て千歳まで至る勇払越(ゆうふつごえ)新道(※注)も開かれました。その前年に銭函に旅館が初めて開業したとあり、銭函が次第に交通の要所になっていく様子がうかがわれます。
 前号でお話を伺った方によると、この安政4年に開かれた道は、馬追坂に重なるように通っていたのではないかとのことです。
 明治13年には手宮・札幌間に鉄道が開通し、銭函駅が設けられました。安政4年に道路が開かれてわずか23年で国内3番目の鉄道がこの銭函の地に通ったわけですから、時代の流れの速さに当時の人々は目を見張ったことでしょう。
 鉄道は開通したものの、米一俵が3円28銭だった明治14年に、手宮・札幌間の運賃は、上等1円、下等でも40銭と、決して安くありませんでした。また陸路で荷物を運ぶにしても馬車では時間もかかり、大変だったことが想像されます。馬追坂
 そこで、銭函と札幌の間を運河でつなぎ、舟で荷物を運搬する計画が立てられました。3年の工期をかけて銭函から石狩の花畔(ばんなぐろ)まで運河が開通したのは明治30年10月でした。
 この銭函運河と、茨戸から現在の創成川をつなぐ運河により、銭函と札幌の間で舟が通うようになりました。しかし、大雨による洪水で堤が決壊し、実際に運河として使われたのは、わずか7、8年間だったといわれています。
 銭函郵便局から踏切を渡って右に曲がると、星置川にかかる狭い橋があります。橋のそばに合流する川がありますが、これが銭函運河の起点です。お話を伺った方によると、子どものころ、ここに舟入間があって、舟が舫(もや)ってあったこと、そして魚を捕って遊んだことを今でもよく覚えているそうです。
 いまではその役目を失い、細い水路にすぎない銭函運河ですが、そばにたたずめば、荷物を積んだ舟が行き来した姿がまぶたに浮かんでくるようです。

馬追坂の地図

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