冬の小樽運河


停車場の坂  後編 伊藤整も通った坂

 塩谷2丁目の徳源寺脇から停車場の坂を上り切ると、切り割りになった峠に出ます。左手に見事な地層があります。この地層が海底で造られたのは500万年以上も昔のことだそうです。峠からは、塩谷駅が見え、その向こうには塩谷丸山の姿を望むことができます。
 塩谷の昔の暮らしについて、塩谷1丁目にお住まいの方に伺いました。
 この方は終戦後、農業のかたわら夏は馬車、冬は馬そりで荷物を運んでいました。当時は塩谷には280頭もの馬がいて、運送を業とする「馬車追い」も10軒ほどありました。
 「浜から駅まで馬そりで行くのに、文庫歌(ぶんがた)を回らずに停車場の坂を上るのが近道だけど、力のある馬でないとあの急な坂は上れなかったなあ」。冬は石炭やコークスを家庭に配達するために、馬そりで塩谷駅のそばにあったコークス置き場に通ったそうです。昭和30年代になると、馬はオート三輪や四輪トラックに取って代わられ、姿を見ることもなくなりました。
 塩谷の人々は、昔から停車場の坂を越え、塩谷駅で汽車に乗り、まちに出かけました。塩谷ゆかりの文学者伊藤整も例外ではなく、国道のそばにあった家から坂を越えて汽車通学をしました。小説「若い詩人の肖像」には坂の描写があります。停車場の坂

 「朝、私は、薔薇(ばら)の垣根をめぐらした家を出て、二十分ほどかかる丘を越え、通学列車に間に合うように駅に行く。その汽車には、私たち学生の外に、十人ばかりの勤人(つとめにん)がきまって乗った。また野菜や魚を市場に運ぶ村の人たちが乗った」

 この「二十分ほどかかる丘」が停車場の坂です。大正10年代の塩谷駅の情景が目に浮かぶようです。
「若い詩人の肖像」にはもう一カ所、停車場の坂の冬の情景が描かれています。

 「私は村の駅で下り、(中略)飛び飛びの電柱毎(ごと)に電燈のついている駅から村に出るまでの、少しの登りと長い下りのある坂道を、海からマトモに吹きつける吹雪に逆らって歩いた」

 時代は移っても伊藤整の描写した停車場の坂の雰囲気は、今でもそのまま伝わってきます。
 500万年を経た峠の地層は、坂と塩谷の暮らしの移り変わりを黙って見つめているようです。

 

停車場の坂の地図

このサイトは島根県CMSで構築されています。
Copyright © 2009 Otaru CIty.