小樽ゆき物語

ナホトカ市の最近のできごと(2012年5月)

2012年5月25日進む住宅建設

住宅建設 新たな高層住宅が安定的に増加している。2012年には39000平方メートル超える住宅建設が予定されている。ナホトカ市行政府都市計画局が伝えた。

 

 今年ナホトカでは8棟の住宅が竣工する。すでに2棟が供用を開始され、1棟は平和通りの72戸建て、もう1棟はユジノモルスコイ地区の勝利通りの90戸建てで、それらの総面積は10200平方メートルである。2011年の第一四半期と比較すると面積は倍増している。これは沿海地方の自治体の中でも最も高い伸び率である。

 都市計画局による情報では、2015年の終わりまでに戸建て住宅や、地下駐車場や整備された敷地を有する複合型住宅など、246000平方メートルの住居が建設される計画である。住宅建設のピークは2014年で、総面積は132000平方メートルに達すると見込まれている。

 住宅建設はどの地域においての発展の指標である。こうした指標に関してナホトカは、他都市と比較しても順調と言える。住宅市場のさらなる発展は、市への投資を誘引するための多くを可能とすることから、地方政府は関心を寄せている。

 市況に関しては、市統計局の資料によると、最近のナホトカにおける一次市場における1平方メートル当たりの平均価格は36000ルーブルとなっている。二次市場では29000~30000ルーブルと評価されている。いずれの市場においても、立地条件、建設資材、住居のグレード、インフラ整備の程度などが価格に反映されている。

コンスタンチン・シェーヴキン

ナホトカ市行政府広報担当

住宅建設2住宅建設3

 

 

2012年5月11日抑留者の霊に捧ぐ

 

慰霊碑建設 ナホトカでは、日本人墓地の跡地に慰霊碑の建設が開始された。作業はナホトカ市行政府の発注に基づいて行われている。

 

 セニャビン通り地区に戦後初めて、日本人抑留者の墓地が造られた。ここには半世紀以上にわたり、収容所で亡くなった関東軍の兵士の遺骨573体が埋葬されていた。2005年の政府間協定に基づき、遺骨は祖国に返還された。

 長年にわたって、亡くなった兵士の親族だけではなく、ほかならぬナホトカの住民によっても墓地の歴史が知られ、記憶されてきたことは興味深いことである。墓地一帯はナホトカ市の担当が管理を行うとともに、墓碑の清掃は日本からの遺族らが行ってきた。ナホトカ市内における犠牲者の記憶を不朽とするため、墓地の後にも埋葬地は残すこととして決定された。

 ナホトカ市行政府の発注に基づき、以前日本人墓地があった場所で慰霊碑の建設が始まった。自然石で囲まれた円形の庭園の中央には墓碑が配置される。また、通路には灯明を伴ったコンクリート製の鳥居が建設され、周囲には装飾された囲いが配置される。

 抑留者のナホトカにおける在留の証は、この慰霊碑だけではない。旧日本兵の手によって、ウラジオストクスカヤ通り、レーニンスキー通り、ルナチャールスキー通り、シビリスキー通り、コムソモリスキー通りにある住宅が建設されている。鉄道の敷設にも旧日本兵が関わった。当時の資料にもあるとおり、1947年春ナホトカには、およそ40000人の抑留者が集中していた。主な収容施設は、バルハートナヤ鉄道駅の地区に、それを補完する施設は漁港地区に位置していた。病院は極東海員学校の地区に、映画館「ルーシ」がある地区には重病人のための隔離病棟があった。最後の日本兵は、1950年5月にナホトカから本国に帰還した。

コンスタンチン・シェーヴキン

ナホトカ市行政府広報担当

慰霊碑建設2慰霊碑建設3

 

2012年5月2日ニコライ・ブハンツォフ氏逝去

ニコライ・ブハンツォフ氏

 ニコライ・ドミトリエビッチ・ブハンツォフ氏は1933年12月27日アルタイ地方のカシノ村で生まれた。運命は、彼の人生の大部分を沿海地方で過ごし、そのうちおよそ10年間、さまざまな指導的立場で勤務するよう導いた。1975年8月、ソビエト連邦共産党中央員会の最高教育機関を出たのち、共産党ナホトカ市委員会の第二書記に任命された。1980年から1983年まで、ナホトカ市執行委員会を指導し、同年10月から1985年1月までは共産党ナホトカ市委員会第一書記のポストに就いた。

 この間、ナホトカでは産業が発展を遂げ、社会基盤も形成された。1983年には75000平方メートルに及ぶ住宅開発や、ボストーチヌイ港の7番埠頭の開発が進められ、総生産も計画に比べて早くに達成した。1984年には、保健、教育、文化、商業、公共給食の分野で多大な成果を収めた。また、住宅建設のほか、職業訓練学校や診療所、冷蔵施設の建設、さらには送水管や排水設備の整備が継続して実施された。

 ナホトカでの勤務の後、同氏は沿海地方執行委員会副議長に転身し、1990年から1993年までウラジオストク市の商業機構に務めた。「献身労働」と「労働英雄」の勲章のほか多くの功績が顕彰された。

 ニコライ・ドミトリエビッチ氏のご家族、ご親族に対して深く哀悼の意を表するものである。

 ナホトカ市行政府広報担当

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