公開日 2020年10月22日
更新日 2021年01月14日
第7話 中城ふみ子の風景 冬の張碓海岸(広報おたる平成19年1月号掲載)
帯広生まれの歌人中城(なかじょう)ふみ子は、昭和29年8月3日、札幌医科大学附属病院で亡くなりました。31歳でした。
ふみ子はその2年前、帯広の病院で乳がんの手術をしましたが、昭和28年12月、新しくがん研究室を設けた札幌医科大学附属病院に入院して治療を受けることを決心。入院前に貧血の治療のために、小樽に10日ほど滞在しました。
小樽には、鉄道病院に勤務する医師に嫁いだ妹がいました。妹夫妻と過ごした小樽の10日間は、つかの間の心安らぐ日々でしたが、ふみ子は再度の手術と体力の衰えから、自分に残された時間が長くはないことを自覚したようです。このころ作った次の短歌は、小樽から札幌へ治療に向かう汽車の中から見えた冬の張碓海岸の風景を詠んだものともいわれています。
冬の皺(しわ)よせゐる海よ今少し生きて己(おの)れの無惨を見むか
入院の直前、ふみ子は『短歌研究』の第1回新人五十首募集に作品を送りました。編集長中井英夫(なかいひでお)は、ふみ子の短歌が停滞していた歌壇に一石を投ずることを確信し、特選一席として4月号巻頭に発表しました。乳がん手術と離婚、奔放(ほんぽう)な恋愛の記憶を重ねて劇的に仕立てられたその作品は、にわかに歌壇内外の注目を集めたのです。歌壇内の反発も少なくありませんでしたが、中井の努力で7月刊行された歌集『乳房喪 失(ちぶさそうしつ)』は多くの人を感動させました。
中井は「乳房喪失」を特選としてからも、矢継ぎ早に速達を送り次の作品を書かせました。中井の熱意にふみ子は応え、かき立てる命の炎を短歌へと昇華していきました。
灼(や)きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給(たま)へ
年々(ねんねん)に滅(ほろ)びて且(か)つは鮮(あたら)しき花の原型はわがうちにあり
息きれて苦しむこの夜もふるさとに亜麻(あま)の花むらさきに充ちてゐるべし
ひそかに「アシナガオジサン」と呼んだ中井が札幌へ面会に来たとき、ふみ子は廊下に待たせて化粧を続けたといいます。ふみ子が力尽きたのは中井が帰京した翌日でした。
小樽の海に向かい「己れの無惨」を見すえて生きることを告げてから、8カ月間を中城ふみ子はこのように生き抜いたのです。