おたる文学散歩 第8話

公開日 2020年10月22日

更新日 2021年01月14日

第8話  鉄道と文学(広報おたる平成19年2月号掲載)

  2月3日から4月1日まで、市立小樽文学館では企画展「鉄道と文学」を開催します。そこで小樽駅を中心に、鉄道の旅と作家とのかかわりをご紹介します。

 

 明治40年9月、「小樽日報」の記者となった石川啄木がまず旅装を解いたのは、姉の夫で中央小樽駅の駅長を務めていた山本千三郎宅でした。啄木は才能に溢れた天才詩人でしたが、気性も激しく、上司と対立して「小樽日報」を退社。翌明治41年1月19日に、小樽駅から釧路に、一人、旅立ちます。

 

 忘れ来し煙草を思ふ/ゆけどゆけど/山なほ遠き雪の野の汽車(『一握の砂』より)

 

 宮沢賢治は大正13年5月、花巻農学校生徒を引率して北海道への修学旅行を行ない、途中小樽に立ち寄っています。今も残されている「復命書」によると、小樽高等商業学校(現小樽商大)の実習室などを見学、小樽公園で休憩し、札幌へ向う列車の中で生徒と校歌を合唱したとあります。

 

 伊藤整は、庁立小樽中学校(現潮陵高校)に入学してまもなく、実家のある塩谷から小樽まで汽車通学を始めます。この通学列車の中で余市から通う青年や少女と親しくなります。その一人の上級生から借りた『島崎藤村詩集』に、大変感動したことが、伊藤整の人生を決定付けました。生涯の親友もこの列車で知り合い、少女たちとの恋愛もこの列車の中で始まるのです。

 

 昭和43年、19歳で連続射殺事件を起こし死刑囚となった永山則夫は、手記「無知の涙」、小説「木橋」を獄中で執筆しました。この異色の作家と小樽駅に、知られざる出会いがあります。

 

 「遠藤(弁護士) だって、あなたは(事件の後)網走で死ぬために北海道に渡ったと言ったね。 永山 うん。だから今言ったように、記憶にある所をずうっと見ていきたいという感じでいってたわけ。......その翌朝はとにかく小樽に行ったわけね。小樽の駅についてね。途中から汽車に乗ってそれで小樽に着いて、その汽車の中というのは、一番汽車なのかな、おふくろと同じようなしょいこの人たちがいっぱいいたわけ」(『高裁における被告人供述書』より)

 

 幼いころ、母と兄弟に捨てられ網走の橋の上に置き去りにされた体験を持つ永山則夫は、作品のなかでも繰り返し母親への怒り、恨みをつづっていますが、小樽駅での一瞬の光景に、報われなかった母への慕情が、垣間見えるようです。

 

鉄道と文学

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