公開日 2020年10月22日
更新日 2021年01月14日
第11話 しゃべり捲くれ 詩人・小熊秀雄(広報おたる平成19年5月号掲載)
小熊秀雄は、明治34年、小樽区稲穂町10番に生まれました。現在の文学館の向かい辺りになります。幼いころ、稚内から樺太に移り、現地の小学校を卒業後、漁師、養鶏場や炭焼きの作業員、農夫の手伝い、伐木やパルプ工場の雑役などに従事、ほとんど独立の生活を営んだそうです。
旭川新聞の記者をしながら童話や詩を書いていましたが、昭和3年、妻子を連れて上京。翌年から池袋に近い長崎町に住み、その後、町内を転々としました。生活は困窮を極めましたが、プロレタリア詩人会に入り、次々と作品を発表しました。昭和8年、小林多喜二虐殺後、プロレタリア文学陣営が次第に沈黙がちになってから、むしろ小熊秀雄の本領が発揮され、雑誌『詩精神』などに、「同志」に対してより痛烈な風刺詩を書きまくったのです。
「私は、いま幸福なのだ/舌が廻るといふことが!/沈黙が卑屈の一種だといふことを/私はよつく知つてゐるし、/沈黙が、何の意見を/表明したことにも/ならない事も知つてゐるから。」(「しやべり捲(ま)くれ」より)
小熊秀雄の住んだ長崎町には、アトリエ付きの小さな貸家がたくさん建てられ、「アトリエ村」と言われました。自分でも独特のペン画を得意とした小熊は、若く貧しい画家たちと親しくなり、彼らが集う池袋を、パリの芸術家の街になぞらえ「池袋モンパルナス」と名付けました。
貧乏暮らしが続き、結核の病状も進行。さらに左翼系文学雑誌の廃刊が相次ぎ、作品発表の場も失っていった小熊秀雄は、昭和15年11月、小さなアパートの自室で、眼を見開いたまま39年の生涯を終えました。
「あゝ、夢は去らない、/びつしよりと汗ばみながら/いらいらとした眼で/前方を凝視(ぎょうし)する。」(「夜の床の歌」)より
空疎なおしゃべり、無鉄砲なドン・キホーテとも批判された小熊秀雄。けれども彼の「おしゃべりな詩」は、今でも私たちを力づけてやみません。
「いくつかの地平線を越えた、/このやうに我々は前進してゐる、/その証拠には/君は靴の裏をみせ給へ、/そんなに減つてゐるではないか、/我々は約束しよう、/全感情をもつて、/我々は共に旅をつゞけると、」(「魅力あるものにしよう」より)