おたる文学散歩 第22話

公開日 2020年10月22日

更新日 2021年01月14日

第22話  映画館の時代(広報おたる平成20年4月号掲載)

   

  かつて小樽は映画館のまちでした。映画が発明されたのは、1895年のフランス。リュミエール兄弟が、エジソンのキネトスコープを元にして大画面に投影するシネマトグラフを考案しました。

 

 早くもその2年後の明治30年8月、小樽の末広座、住吉座でシネマトグラフ「電気作用活動大写真」が上映されています。これが小樽で最初の映画興行でした。

 

 明治42年には、活動写真常設館第一号として神田館が妙見川河畔に開設されました。その後は、公園館、稲穂館(富士館)、電気館と、映画興行専門館が相次いで開館。大正末期には、既に10館を数えています。

 

 ちなみに、小林多喜二は大変な映画好きでした。大正の末ごろから昭和初めにかけて、公園館、電気館、寿館、中央館などで盛んに映画を見てその感想を日記につけています。代表作「蟹工船」など、多喜二の作品の多くが映画から大きな影響を受けているものと見られています。

 

 戦後、昭和30年代に入り、映画館は急激に増加します。昭和31年から36年にかけて市内の映画館は23館に達し、小樽は人口比で8000人に1館の映画館を持つ、北海道随一の映画館のまちとなったのです。

 

 映画館の入場者数は、昭和32年で延べ592万人。市民一人が年間30回以上映画を鑑賞したことにもなります。小樽の映画館は、この年に絶頂期を迎えました。しかしながら、昭和30年代半ばには映画人気は陰りを見せ始めます。37年〜40年にかけて小樽市内の映画館の廃業や転業が相次ぎました。昭和50年には、入場者数が全盛時の20分の1の30万人を割り込みながらも、7館の映画館が営業を続けていました。しかし56年から58年にかけて、富士館、小樽東映、小樽東宝、電気館、小樽にっかつ劇場が相次いで閉館してしまいます。

 

 さらには平成3年、花園映画劇場が閉館。6年には小樽中劇会館が閉館して、翌年の7年に小樽最後の単独映画館であった「小樽東宝スカラ座」が閉館してしまいました。こうして、小樽の「映画館の時代」は事実上、幕を下ろしたのです。

 

昭和30年代の小樽の街頭風景

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