おたる文学散歩 第29話 

公開日 2020年10月22日

更新日 2021年01月14日

第29話 高田紅果と小樽の文化運動(広報おたる平成22年9月号掲載)

   

あはれかの眉の秀でし少年よ
弟と呼べば
はつかに笑みしが

石川啄木「一握の砂」より

 

 この「眉(まゆ)の秀でし少年」が、大正期の小樽に清新な文化活動の風を巻き起こし、芸術の街小樽としての礎を築いた高田紅果(たかだこうか)です。

 

 明治40年、すでに天才詩人として知られていた石川啄木が、小樽日報の記者として小樽に赴任します。それを知った十六歳の紅果は、友人とともに啄木のもとを訪れます。『一握の砂』に収められているこの歌は、そのときの紅果の印象を詠(うた)ったものです。

 

 紅果は、明治24年、稲穂町で生まれました。子どものころから文学好きだった彼は、紅花(後に紅果)と雅号を付け、文芸誌『秀才文壇』『文章世界』などに創作作品を投稿し続けました。

 

 やがて青年となった紅果は、文学のみならず美術まで関心を広げ、三浦鮮治、船樹忠三郎、平澤貞通といった小樽の若手画家たちと積極的に交流を図ります。そして、同人誌グループ「白夜(はくや)会」を核に、雑誌発行や美術展開催など小樽で盛んな活動を繰り広げていきます。

 

 大正6年、「白夜会」は、有島武郎を講演会の講師として招きました。有島は、アメリカの民主主義詩人ホイットマンの人生と思想について情熱的に語り、メンバーに強烈な感動を与えます。このことが雑誌『巳達(おれたち)』を生み出し、その巻頭に「新時代の児(こ)」として自分たちの世代が担うべき使命を高らかに表明しました。

 

 その後、紅果は、アマチュア画会「緑人社(りょくじんしゃ)」を結成。この会には、岩内の画家で、有島の『生まれ出(い)づる悩み』のモデルにもなった木田金次郎も参加し、二人は晩年まで深い友情で結ばれました。

 

 戦後、紅果は、石川啄木の歌碑建立に小樽啄木会代表として尽力します。紆余(うよ)曲折のあった歌碑に刻む歌の選定に加わり、また、碑石として使った石は、紅果自らが豊倉で見つけたものです。

 

 昭和26年11月、小樽公園で歌碑の除幕式が行われました。その四年後、紅果は64歳で急逝します。最後まで小樽の地で、文化芸術活動のネットワーク作りに奔走した彼は、亡くなる四カ月前、啄木の歌碑の前で次の歌を朗詠しました。

 

眉秀でし少年の日の思い出を  えがきてこれの碑の前に立つ

 

 

小樽公園にある石川啄木歌碑

小樽公園にある石川啄木歌碑。花園町の元啄木住居を見下ろす方向に建立された。

 

有島武郎と高田紅果など

有島武郎(前列左から3人目)、高田紅果(後列左から4人目)、木田金次郎(紅果の右隣り)

※参考文献:亀井志乃『高田紅果の青春』、水口忠『小樽啄木会のあゆみから』

※点のある「啄」を使用できないため、「啄」で表記しています。ご了承ください。

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