公開日 2020年10月22日
更新日 2021年01月14日
第32話 中江兆民が過ごした小樽での日々(広報おたる平成24年9月号掲載)
明治24(1891)年4月、小樽で初めての新聞「北門新報」が、地元経済人であり、初代小樽区長であった金子元三郎らの手により創刊されました。その主筆として招かれたのが「東洋のルソー」と評された中江兆民でした。
兆民は、弘化4(1847)年、土佐藩(現在の高知県)で生まれました。明治期における思想家、ジャーナリストであった一方、初代衆議院議員の一人で、政治家でもありました。フランスの思想家ジャンジャック・ルソーを日本へ紹介したことや自由民権運動の理論的指導者であったことで知られています。
さて、兆民が小樽に赴任したのは明治24年7月27日と記録されています。どのような経緯で小樽に招かれたのかは、小樽市史第2巻にある金子元三郎の口述から見てとることができます。当時の北海道で新聞社と呼べるものは、札幌に北海道毎日新聞があったのみでした。しかし、1社だけでは、偏向報道となることや他からの刺激がなければ進歩もないとの思いから、小樽でも新聞を作り出そうとの議論が広がりました。元三郎は、自らのつてを使い、当時、新聞社界で第一人者であった兆民を引き入れることに成功します。
しかしながら、北門新報の初号である明治24年4月21日の時点では、兆民はいまだ小樽に来ておらず、東京から論説の原稿を送っていたようです。そして、ようやくその年の7月、陸路と海路を乗り継ぎ、小樽港に降り立ちます。そのときの彼の姿は、乱れた髪に、浴衣がけ、手には大徳利という異様なものだったといいます。
その後、相生町に居を構えますが、小樽での兆民の動きについては、よく分かっていません。ただ、奇人といわれた彼の数々の行動を紹介した「中江兆民奇行談(明治34年・岩崎徂堂著)」には、小樽でのエピソードが幾つか記されています。その一編「為替にて尻をふく」に、彼の人間性を大いに垣間見ることができます。兆民の小樽での貧乏生活を聞きつけた東京の友人が、さぞかし困っているであろうと、少しばかりの金を為替に換え、書面を付けて送ります。まもなく兆民の手にそれらが渡り、普通であれば大いに喜ぶところですが、そこが奇人といわれる兆民。ありがたいとも思うわけでもなく、気の毒とも感じない。すぐに便所へ行って、為替を二、三度もむと、それで尻を拭いたという逸話が残されています。
明治25年5月、北門新報の札幌移転に伴い、兆民も小樽を後にしますが、そのわずか数カ月後、彼に対する圧力もあって、同社を退社します。兆民が小樽で過ごした期間は非常に短く、また、北門新報自体も10年ほどで他社に統合されましたが、紙面には兆民が小樽で過ごした証しが残されています。
現存する北門新報はごくわずか。ちなみに新聞の題字は兆民の筆によるもの(市立小樽図書館所蔵)