おたる文学散歩 第33話

公開日 2020年10月22日

更新日 2021年01月14日

第33話 小樽・南極物語(広報おたる平成25年1月号掲載)

 

 初めて日本人が南極大陸に足を踏み入れたのは、今から100年ほど前のこと。その偉業を成し遂げたのが、明治期の探検家、白瀬矗(しらせのぶ)でした。彼の生涯を、小樽に縁(ゆかり)のある小説家、岡田三郎が「開拓者白瀬中尉」として描くなど、白瀬と小樽に意外なつながりがあったことに気付かされます。


 白瀬は、文久元(1861)年、秋田県で生まれました。幼少時に聞いた北極の話をきっかけに探検家を志しますが、18歳で上京し、陸軍に入隊。32歳で予備役となり、小説家、幸田露伴の兄である郡司成忠の千島探検に参加します。過酷な条件のもと、厳寒の地、千島での越冬を体験した彼は、その後、北極探検から目標を南極点到達に変更し、その資金調達に奔走します。

 

 同じ頃、南極点を目指す隊員の募集も始まりました。当時の小樽新聞にも「南極探検の挙」という記事が掲載され、小樽からも応募があったことが分かります。

 

 明治43(1910)年、漁船を改造したわずか200トン余りの「開南丸」は、南極大陸を目指し出港します。しかし、出港の遅れが影響し、一年ほどオーストラリアで足止めを食うことになります。常に資金不足に悩まされていたため、この間、隊員の一部は帰国し、全国で募金活動などを行いました。小樽でも稲穂町にあった劇場「大黒座」で後援演説会が行われたほか、小樽新聞社による呼び掛けにより1カ月で850円(現在の金額で100万円以上)ほど集まったといいます。

 

 数々の苦難を乗り越え、白瀬は明治45年1月、南極大陸に上陸。残念ながら南極点到達は果たせませんでしたが、その名は南極観測船「しらせ(注)」として今も受け継がれています。

 

 小樽文学館では、白瀬と小樽の関係について紹介する企画展「小樽・南極物語」を1月27日まで開催しています。白瀬と親交があり、稲穂郵便局長だった石川竹之助氏が記した白瀬の半生のほか、近年、石川氏の親族から寄せられた資料などを展示しています。
 また、平成25年1月20日には、市内在住のフリーライター渡辺真吾氏によるギャラリートーク「白瀬矗の南極探検と小樽」も開催します。

 
白瀬矗と開南丸南極探検白瀬中尉伝記

写真上 白瀬矗と開南丸

写真下 石川氏が記した「南極探検白瀬中尉傳記」

 

(注)公式には、白瀬の偉業を記念し命名された南極大陸にある「白瀬氷河」が船名の由来とされている。

参考・新聞記事万華鏡「白瀬中尉の南極探検(渡辺真吾著)」

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