公開日 2020年11月14日
更新日 2021年06月12日
『西蝦夷日誌』に記された「高島おばけ」
小樽沖の石狩湾における蜃気楼を記した古い文献は、『再航蝦夷日誌』、『西蝦夷日誌』です。いずれも幕末に蝦夷地を探検した松浦武四郎が著したものです。それらに記されているのは、松浦武四郎が弘化3(1846)年に船で小樽沖を航行中に見た現象で、現在の小樽市高島地区の地名をとり「高島おばけ」と地元で呼んでいた現象です。
『西蝦夷日誌』には、遠方の船や島などの対象物が大きくなり、景色が刻一刻と変わるのに驚いた様子など、松浦武四郎が見た高島おばけのことが詳しく記されています。
高島おばけの図、田崎早雲画、松浦武四郎著「西蝦夷日誌」の挿図
西蝦夷日誌から抜粋
高島おばけ・蜃気楼の現象(訳文)
弘化3(1846)年の5月初旬に、塩谷の海上に来たところ船の乗員が、「今日は高島のオバケが出る。あれを見なさい」と言い、彼方の岬を指して教えてくれた。すると小さな点のような島と思えた岩磯が大きくなった。すぐにその島が青黄赤白の色になり、また黄金の光を放った。遠くから来た船のむしろの帆がとても豪華な錦の垂れ布に変わり、彼方の小さな家のような漁屋は宮殿楼閣のようで、珊瑚(さんご)瑠璃(るり)の屋根に黄金白銀の梁のようであった。あれよあれよと指さして眺めている間に、西風が一吹きすると消えてしまった。さて水先は、「今宵降出すか、いや明日かな」と言った。理由を聞くと、このオバケの出る時は必ず雨になると言う。実際のところ、明朝より小雨が降ってきたのも不思議なことだ。おそらくこれは濛気(もうもうとしたもや)によるもので、いろいろな人家、船、または岩等が変化して大きく見えたのだと思う。これこそいわゆる、私の故郷である伊勢(三重県)の桑名の蜃気楼であろう。桑名では尾張(愛知県)の知多半島を見ている。また周防(山口県)の黒崎浦で見えるのは、伊予(愛媛県)の島々を見ているのであろう。それらはいずれも十里ほどであるが、ここではわずか二里に満たないところを見ているのでとても近くに見える。その他に、北越(新潟県)糸魚川、南部(岩手県)の山田浦等にても時々見られるそうだ。糸魚川にては佐渡、山田浦にては御崎を見ていると思われる。
松浦武四郎は蜃気楼を知っていた
当時の高島地区の人々が「高島おばけ」を蜃気楼であると認識していたかは分かりませんが、武四郎はこの現象が蜃気楼であったことを理解していたようです。彼の故郷である伊勢(三重県)の沿岸は当時蜃気楼の名所として知られていて、伊勢湾の蜃気楼が浮世絵に描かれたり東海道名所図会に紹介されたりしていました。そのため武四郎は蜃気楼に関する理解があったのでしょう。さらに日本各地を歴訪し、多くの文献にも目を通していた彼は、各地の蜃気楼に関する情報も知っていたと思われます。
小樽の蜃気楼「高島おばけ」は、江戸時代から現代までずっと語り継がれてきました。それは、蜃気楼について理解のある稀な人物「松浦武四郎」が、はるか蝦夷地を訪れ、小樽沖で蜃気楼を偶然に見て、そして西蝦夷日誌などの文献に記してくれたおかげなのです。