FMおたる「明日へ向かってスクラムトライ!」令和4月8月1日放送分

公開日 2022年08月09日

更新日 2022年08月31日

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小樽市制100周年を記念して、総合博物館本館の企画展「百年の礎 北海道の心臓と呼ばれたまち」【小樽市制100周年記念事業】に沿って、同館の石川館長とともに、小樽市のこれまでの100年を振り返ります。

※迫小樽市長の出演はありません。

 

放送の内容

オープニング

毎月第1第3月曜日のこの時間は、「明日へ向かってスクラムトライ!」をお送りしています。
今日は令和4年8月1日です。今からちょうど100年前、大正11年8月1日に、それまで小樽区だった小樽が小樽市となり市制が施行されました。
本日の「明日へ向かってスクラムトライ!」は、いつもと内容を変更して、小樽市制100周年記念特別番組を放送します。
本日は、現在、小樽市総合博物館で開催されている小樽市制100周年記念企画展「百年の礎 北海道の心臓と呼ばれたまち」の会場で、事前収録した内容を放送します。


本編

(FMおたるパーソナリティー)
小樽市制100周年記念特別番組の収録のため、小樽市総合博物館本館に行ってきました。今回のスクラムトライは、迫市長の出演はお休みとなりますが、小樽市総合博物館の石川直章館長、そして、小樽市広報広聴課の大原理紗子さんと共に番組を進めてまいります。石川館長、大原さん、今日はよろしくお願いします。

(石川・大原)
よろしくお願いします。

(FMおたるパーソナリティー)
さて、小樽市総合博物館本館では、7月23日から小樽市制100周年記念企画展「百年の礎 北海道の心臓と呼ばれたまち」が開催をされています。本日は、その会場から実際に展示物を見ながら、小樽市の100年の歩みについて、石川館長にお話を伺っていきたいのですが、石川館長、この展示会を企画された意図と言いますか、狙いについて教えていただけますか。

(石川)
まず、今年は100周年ということもあるのですが、実は市になってからの100年というのは、小樽にとっては特別な100年。特に小樽が爆発的に大きくなっていって、一時「斜陽の町」と呼ばれるような時期があって、そこから再生を果たすようになった町ということで、その100年間の歩みを簡単にでも振り返ることができないだろうか、ということで、いろいろなところにお願いをして、資料をお借りして、開催することができました。

(FMおたるパーソナリティー)
大変貴重な資料が会場に並んでいるわけですが、その小樽の繁栄と再生を、まさにこの中で感じることができる、そんな企画展になっているのではないかと思いますが、さて、広報広聴課の大原さんにもお越しいただいていますが、大原さんも小樽市制100年について、何か思いというか、そういったものはありますか。

(大原)
今回、広報おたる8月号の特集を担当させていただきまして、古い写真をそこで見る機会がありました。写真を見て、楽しいなと思っているうちに、歴史ってどうだったんだろうと興味を持ちました。今回は、館長にお話を聞けるということで、ワクワクが今から収まりません。

(FMおたるパーソナリティー)
とても貴重な時間になりそうですよね。それでは、展示されている資料を見ながら、小樽市の歴史について、館長に話をお伺いしたいと思いますが、まずは、企画展の一番最初のコーナーですが、1922年の色内十字街の写真が展示されていますよね。この写真ですが、企画展のポスターにも使われていますし、100年前の小樽の様子を象徴しているのではないかと感じますが、石川館長、100年前の小樽というのは、どんな町だったのでしょうか。

(石川)
北日本随一の経済都市と言われたのがちょうどこの頃ですね。たくさんの銀行、たくさんの商社が小樽に支店を出してきて、浜の方ではたくさんの船が行き来をして、そういう時代です。最初に掲示しました、今、おっしゃってくださった写真は、左側に三菱、右側に拓銀という位置で撮った写真ですが、三菱が出来たてで拓銀とその奥にある第一銀行はまだ工事中という写真で、これから、この色内十字街が北海道だけではなくて、北日本の中心の経済センターとして活躍する、そのまさに始まりの光景、これが小樽が市になった1922年の光景ということになります。それを象徴する写真として、これを使っています。

(FMおたるパーソナリティー)
まだ、建築途中にある建物というのが、感慨深いものがありますが、ただ、驚くのは、今見ている風景とこの100年前の風景が一致する部分がたくさんあって、こういう町って他にはないのではないかと思いますね。

(石川)
最後にまたお話しするかもしれませんが、「北海道の心臓と呼ばれたまち」という日本遺産を目指していますが、その象徴的な街区だと思います。これほど100年前の光景がきれいに残っていて、しかもそれが一周一つの画角の中に収まる、その範囲に残っている、こういう町は、日本全国にほとんど残っていないですね。小樽の独特な光景と言ってもいいですし、日本の近代史を象徴する光景がここに残っているということになると思います。

(FMおたるパーソナリティー)
今では、日銀の金融資料館になっていますが、その建物もくっきり見えますし、また繊維会社とか、今は美術館になっている建物も見ることができます。これだけのものが今も100年前と変わらずあるということが素晴らしいことですよね。

(石川)
よく、見学にいらっしゃる小学生たちに、こういう写真を見せて、「同じ場所に行ってごらん」と言ったらすぐ行けるという。これは、他の町ではほとんど起きない現象なんですよね。

(FMおたるパーソナリティー)
これは他の町では、やっぱり壊されてしまうことが多い。

(石川)
そうですね、近くで言うと札幌は、札幌オリンピックがあったあの時期に大きく町が変わってしまっています。それから、残念なことに戦争で大きな被害を受けて、町が変わらざるを得なかったという町もたくさんあります。そのようなことがあって、多くの町では、この近代都市になるころの建物というのは消えていくのですが、幸か不幸か、いろんなことが積み重なって、小樽ではたくさん残っているということですね。

(FMおたるパーソナリティー)
いろいろな奇跡があって、小樽にはこうした街並みが残っているということですよね。100年前に市になった小樽ですが、その前にも、当然、小樽という町はあったわけですが、そもそも小樽に最初に住んだ方というのはどういった方々が多かったのでしょうか。

(石川)
その言い方ですと、縄文時代の人、という話になるのですが。近代都市としては、そのきっかけとしてはニシン漁のころに、最初に手宮や忍路、勝納川の河口付近に漁師の方が小屋を作って住み始めたというのが始まりになります。それが江戸時代の後半ぐらいの話ですが、その頃から次第に町が出来上がっていって、幕末近くに、いわゆる「村並み」という言い方をするのですが、徴税対象ですね、税金をとる対象、役人を置く対象の、ある種の自治組織みたいなものが出来上がったのが幕末の頃になります。そのあと、大きく町が発展するきっかけになっているのが、一つは札幌の建設のための荷揚げ港になったこと、もう一つは石炭の積み出し港になったことです。ここが大きな点ですね。そして鉄道が敷かれた。ニシンで栄えた町というのは日本海側にたくさんありましたが、その多くの町はニシン漁と共に衰退していくのですが、小樽の場合は、ニシン漁が盛んなうちに、次のシフトに手を出していた、手を打っていた。港町、港湾都市、それから商業都市としての手を打っていたので、明治中期以降もすごい勢いで町が大きくなっていったということになります。その町が大きくなっていく途中という一つの段階が、その小樽の市制に変わった大正11年となります。

(FMおたるパーソナリティー)
ちょうど100年前、大正11(1922)年8月1日、まさに今日ですが、小樽区から小樽市となった、大きな転換点だったと思いますが、さて、大原さんにお話をお伺いしたいと思いますが、この企画展のポスターにもなっている、色内十字街の100年前の写真ですが、これをご覧になっていかがですか。

(大原)
最初に見たのは、今日発行される広報おたる8月号で使う写真としていただいたんですよね。これの現在の写真を、比較したものを撮りに行きました。広報おたる8月号で、同じような画角で撮れたのではないかと思っているので、ぜひご覧いただきたいと思っています。写真を見ると、馬に台車みたいなの引かせているものがあったり、昔の写真を見るたびに思いますが、昔って砂埃がすごかったり、例えば、馬がふんをしたり、においとかすごかったのではないかと思いますが、文献とかであったりしますか。

(石川)
啄木が言っていますよね。啄木の短歌の中に「歌ふことなき」小樽、という詩がありますが、実は、小樽の海岸線は埋め立て地です。この色内十字街も埋め立て地ですが、火山灰の土を使って埋めていますので、雨が降るとぐちゃぐちゃなんですよ。悪路になっていて、札幌は割ときれいな道路が多くて、ちょうどこの頃に編さんされた「北海道100番付」という本があって、いろいろなものを番付表にしているのですが、食べ物とか旅館とか、各所の名物が100番付になっていて、その名物の中で、前頭くらいの位置付けだったと思いますが、札幌の良道、良い道で、こっち側に小樽の悪路、悪い道とくるぐらい、小樽の名物だったんですね。啄木はそういう小樽で、馬車でどろを飛ばして走り回っている人たちと酒を飲み交わしたいんだみたいなことを書いています。札幌の人は、言ってしまえば澄ましている、完成された町で澄ましているが、小樽には未完成の魅力があると。明治の40年くらいに啄木が来ていますが、その結果がこの写真ですね。未完成で、と言われたころの10年後の写真がこれですから、ほぼ完成に近づいたのがこの写真です。

(FMおたるパーソナリティー)
写真から見ても、そうした空気感というか、においというのが伝わってきそうですよね。
それでは、次のコーナーですが、「百年の礎~未だ自治発達せず」ということですが、全国に市が誕生したのが、1889年、明治22年のことですが、北海道に市が誕生したのは1922年ですから、30年以上の開きがあるわけですよね。この「未だ自治発達せず」というのは、どういうことだったのかということ。そもそもこの市制施行というのは、石川館長、いったい何だったのでしょうか。

(石川)
市という単位を、自治単位を作って、それぞれの市に自治機能を持たせて、国全体の自治をスムーズに働かせようということで始まったのが市制制度ですね。明治22年ですから、明治政府としては早めの取り組みでしたが、全国で40の町がその年に生まれます。その中で北海道と沖縄は例外扱いにされてしまいます。それ以外にも例えば千葉県ですとか、市が生まれなかった県もありますが、それはたまたまというか、人口が少ないからという、大きな町がなかったからという理由でそうなりますが、沖縄と北海道は別な理由。その理由が、自治が発達してないから、という言い方をされてしまいます。全国で40の町が生まれた中で、例えば福岡県の久留米市が2万4000人くらいですが、当時、函館は5万人いるんです。小樽も高島郡や小樽郡といっている時代ですが、今の小樽の中心市街地だけでも2万人、2万2000人くらいいたんですね。

(FMおたるパーソナリティー)
高島とか、そういったところは含めないで、ということですね。

(石川)
含めていません。そうなると、遜色ない大きさだったんです。でも、先ほどの理由で、北海道は例外、だから市にはならないという、そこから30年かかるんですね。その間、北海道の町、特に函館、小樽、札幌は、どんどん大きくなるので、北海道の大きな町よりも小さな町が次々市になっていく中で、取り残された感じがありますね。

(大原)
小樽は下に見られていたというような。

(石川)
北海道全体が下に見られていたのかもしれません。下に見られていたというか、あそこはまだまだだという。

(FMおたるパーソナリティー)
ここに地図がありますが、この地図というのは、小樽が市になったときの地図ですか。

(石川)
大正14年ですから、3年後の地図ですね。いわゆる広告地図というもので、広告のところを広げていただくと、いかに、100年前の小樽がすごく活発な商業都市だったかというのがわかります。

(FMおたるパーソナリティー)
ものすごい数の広告が出ていますが。

(大原)
文字がすごく小さくて、見えないような。

(FMおたるパーソナリティー)
老眼がきつい私にはほとんど見えないのですが。何件ぐらいありますか。

(石川)
数えたことはありませんが、少なくても1段丸ごと銀行なんです。支店ごとに出していますので、それを含めてですが、これだけの数の銀行商社がずらっとありました。

(FMおたるパーソナリティー)
30件以上はありますよね。

(石川)
それから、学校欄にロース幼稚園ももちろん見えていますが、自動車学校というのが出てくるんです。

(FMおたるパーソナリティー)
100年前にですか。

(石川)
100年前ですから、まだまだ自動車というのは、ごく限られた人しか使っていない時代なのに、自動車学校の需要がありました。いかにハイカラだったか、いかにそういったことに飛びついた人が多かったというか、今後の自動車というのは、使い勝手が良くなるだろうという先見の明がある人たちが多かったのかもしれませんね。

(FMおたるパーソナリティー)
そして、またちょっと驚くのが、今見てもある企業だとか、そういったものが残っているのがまたすごいですね。そして1922年、小樽市と一緒に市になった町というのも、全国にたくさんあるわけですが、このときに小樽と同時に北海道でも市になった町というのもたくさんあるわけですよね。人口が記載されていますが、このとき小樽の人口が11万7953人。今の小樽より人口が多いわけですよね。

(石川)
残念なことに多いですね。函館が一番多いのですが、14万6000人ですから、かなり大きくなっていますが、道内の六つの町、いずれもかなり大きな状態で市になります。この年、もう二つ、市になります。大阪府の岸和田市と埼玉県の川越市が市になりますが、いずれも2万人台。

(FMおたるパーソナリティー)
桁が違いますね。

(石川)
面白いのがですね、実は市制になったお祝いを、他の五つの町は8月1日当日にやるのですが、その日は火曜日でした。小樽は日曜日まで待つんです。

(FMおたるパーソナリティー)
その日にやらなかったのですか?

(石川)
その辺が仕事優先というか、商売優先だったんですね。

(大原)
商人の町みたいな。

(石川)
そうです。さすが商人の町だなと思います。8月6日になって初めて祝典をやるのですが、他の町は8月1日にやっています。そこは小樽らしいなと思います。

(FMおたるパーソナリティー)
8月1日、その日ではなくて、日曜日の6日まで待った。商売が先だろうと。たくましさというかね、力強さを感じますよね。続いてのコーナーに行きますが、「一流の技術者たち」というコーナーになりますが、小樽の町を作っていた方々のコーナーということで、見てみますと、今回は水道局の資料がたくさん展示されていますが、なぜ水道局なのでしょうか。

(石川)
小樽の場合、市制より先に水道が100年を迎えていまして、ほぼ100年経ったということで、一番わかりやすいかなということで、水道局の資料を借りているのですが、もう一つ、水道局は物持ちが良くて、きちんと古い資料が整理されていて、我々としては借りやすかったです。すごい資料をたくさんお持ちですね。今回も出していますが、昭和初めの作業員の制服をとってあるんですよ。

(FMおたるパーソナリティー)
作業員の制服、昭和の初めですよね。

(石川)
図面類もきちんと残されているので、図面をお借りしていますが、本当に驚く資料がざくざくと出てくるんですね。

(FMおたるパーソナリティー)
水道局がなぜそこまでしっかり資料を残していたかというところも気になりますが、その制服で言いますと、法被のような形ですよね。お祭りのときにも着られそうな感じなんですが、これを着て実際に作業されていたんですか。

(石川)
作業されていたようですね。

(大原)
脇のところの色が、全部、紺色というのでしょうか。

(石川)
本来は紺の綿の作業着になります。さすがに退色してきていますので、紺色になっていますが。

(FMおたるパーソナリティー)
ちょっと色が落ちているところもありますが、もともとの地の色だったのではないかという紺色もしっかり残っていますよね。まさに血と汗がこれに含まれているのではないかという感じはしますが、それにしても、この共用栓の図面であったり、細かい資料が残されていたのですね。

(石川)
そうですね、今回出している中では、奥沢水源地を作るときの事前調査の図面を展示していますが、これ実は色付きなんです。

(FMおたるパーソナリティー)
カラーですか。

(石川)
彩色なんですよ。手塗りでもちろん塗っていますが、その色が退色せずに残っていますし、同時に、借りてきた写真が本当に一定の価値がある写真なのですが、まるでピラミッドを作っているような、たくさんの作業員の人たちが階段状の所をうねうねと動いているという写真ですね。

(大原)
かなりの人の数ですよね。

(石川)
そうですね。大工事なわけです。本当に、近代水道というのはずっと渇望されていましたので、特に小樽の場合は船が入ってきますので、船に供給する水、それから火事の多い町でしたから、消火栓としても、消防用の水としての需要。もう一つは、何回か伝染病が流行った時期がありましたので、衛生面でも水道管が要求されていましたので、近代水道というのはどうしても必要だった、そこで北海道で2例目になりますが、明治の末に認可を受けて工事を始めて大正時代に完成ということになります。

(FMおたるパーソナリティー)
小樽市よりもちょっと先輩の、水道関係の施設ですが、こうして奥沢水源地も、今もなお、きちんと残されていますし、それを見ることができるわけですよね。そして今度は、色内銀行街の貴重な資料が展示されているということですが、石川館長、これはどういったものなのでしょうか。

(石川)
ここは、色内銀行街にはたくさんの銀行がありましたので、今回は小樽芸術村にご協力いただきまして、旧三井銀行の資料を中心に展示しています。目を引くのが、非常用持ち出しつづらという茶色くて大きな四角い箱が見える、目につくのですが。

(FMおたるパーソナリティー)
非常用持ち出しつづら。

(石川)
火事などのときに、この中に貴重書類を入れて、担いで逃げる。

(FMおたるパーソナリティー)
これ、結構な大きさですよね。

(石川)
竹で漆塗りなんですよ。

(FMおたるパーソナリティー)
竹を編んだものなんですか。

(石川)
だから軽いんです。

(FMおたるパーソナリティー)
ものすごく重そうに見えますけどね。

(石川)
これに入れてさっさと逃げるという。実際に、三井銀行は一度火事で焼けているんですね。明治37年、色内大火で焼けていまして、焼けたのですが、2日後に営業再開している。

(FMおたるパーソナリティー)
すごいですね。

(石川)
そのときは、これが大活躍したみたいです。

(FMおたるパーソナリティー)
この持ち出し用のつづらに全部重要なものを入れて。

(石川)
さっさと逃げて、すぐ2日後に再開をしていると。芸術村に行くと、まだ残っているのですが、ソファの図面も一緒に出しているのですが、今の建物、曽根中条建築事務所というところが作ったのですが、曽根中条が発注した家具屋が作った図面が残っていて、これも残されていますね。

(FMおたるパーソナリティー)
建物だけではなくて、トータルデザインなんですね。

(石川)
実は、重要文化財になったときの一つのポイントが、こういった貴重な図面類がきっちり残っていたんですね。そこが評価されています。

(FMおたるパーソナリティー)
その旧三井銀行小樽支店ですが、看板というかレリーフですよね。こういったものもしっかり残っているんですね。

(石川)
これは戦後に、戦争中に一回名前が変わるのですが、戦後に戻ったときの看板ですね。それをお借りしてきました。看板もたくさん持っていまして、名前もいくつか変わっていますので、その都度作っているのですが、これは割と新しい方の看板ですね。

(FMおたるパーソナリティー)
一部分、字が抜けているところもありますが、それでもほぼ残っているという状況ですよね。

(石川)
三井銀行は本当に長い間、122年、小樽にいてくれた銀行ですね。明治13年ですから、幌内鉄道が敷かれた年にやってきて、平成までいてくださってということですね。

(FMおたるパーソナリティー)
さて、そんな貴重な資料がたくさん残る中で、残念ながら失われてしまった建物、景色というのが、これまたたくさんあるんですよね。それを今、こちらは貴重な資料を展示しているということなのですが、気づけばなくなった建物って本当に多いんですね。

(石川)
実は、私は北海道生まれではないので、すべての建物の現役時代を知っているわけではないのですが、最初にやった仕事は、歴史的建造物のことを担当していましたので、ある程度は把握している建物ですね。失われた瞬間を見てしまった建物もありますので、残念ですが、これを見ていると、逆によく残っていると思います。建物なり、景観を残すというのはいかに大変なのか、無くなってしまった建物の写真を見ていると感じます。本当に努力を重ねないと残らないと、どこか一本、ちょっとはずれちゃうと、もう消えてしまう。

(FMおたるパーソナリティー)
そうですよね。資料を見ていくと、平成7(1995)年や平成20(2008)年ごろなど、割と最近と言えば最近に壊されてしまっているものがあるんですね。

(石川)
先ほど、札幌は大きく町が変わったとお話しましたが、小樽も変わっていっているんですね。当然、老朽化という問題がついてきます。それから、火災などの災害で壊れてしまうというケースもありますので、元々数がたくさんある町ですので、それでいうと毎年何件かなくなってしまうという確率になってしまいますが、先ほども言いましたように、残してくださっている方の努力がいかにすごいのかを本当に改めて感じることですね。

(FMおたるパーソナリティー)
小樽は結構、映画のロケ地になったりすることもありますが、特に人気な「ラブレター」の中にも出てきました象徴的な建物がありますが、これも残念ながら失われてしまった建物の一つですよね。

(石川)
火災でなくなった建物ですね。これについては、火災でなくなった後に、なくなる前に実測図を職能短大、職能大学の方たちが作っていたので、それを元に模型を作ったんですね。坂さん、元の所有者の方にお渡ししたのですが、もう一個作っていまして、それを今回お借りしてきています。

(FMおたるパーソナリティー)
そうなんですね。

(石川)
旧所有者にお見せするというのはできないので、展示では外観だけを展示していますが、屋根が開くんですね。

(FMおたるパーソナリティー)
屋根が開くんですか。

(石川)
開くんです。屋根が開くと間取りが見える、すごく精巧な模型です。

(大原)
なんかよく見ると、窓とかもすごい格子が入っていて、多分こういう窓の形だったのかなと思います。

(FMおたるパーソナリティー)
そこまでしっかり再現をされているんですね。北海道職業能力開発大学校の学生の方が作製した精巧な模型を見ることができますので、ぜひこちらもご覧になっていただきたいと思いますし、また、石川館長が大変思い入れのある建物、これが写真で展示をされているんですよね。

(石川)
先ほど言いました、私が関わっていたときになくなったという経験をした建物が花園にありました珠玖(しく)さんの建物ですね。これは本当に独特の洋館だったので、結構大きい建物なんですね。存在感がすごくあった建物で、おしゃれな建物でしたが、本当に惜しい建物でしたね。惜しい建物で言うと、市立小樽図書館も実は惜しい建物です。

(FMおたるパーソナリティー)
市立小樽図書館。前の建物ですね。

(石川)
これは皆さん、本当に思い入れのある市民の方多いのではないでしょうかね。今の建物はもちろん機能的な建物になっていますが、ステンドグラスにそれが残されています。本当に素敵な、北海道でも市民向けの図書館としては、多分初めてのはずなんですよ。これが初代のはずなんです。市民図書館としては2例目の図書館ではあるのですが、1例目はほとんど専門書だけの図書館でしたので、2例目のこれが実質的には多分最初。そのときにすでにこれだけ大きなおしゃれな建物を建ててしまった小樽市。

(FMおたるパーソナリティー)
まさに、市民のための市立図書館だったわけですね。

(石川)
中の構造を見てきますと、婦人室をちゃんと作っているんですね。当時の環境から言って、女性がゆっくり本を読める環境を確保しようと配慮しているんですね。考え方もかなり先進的な考え方を持って作った建物です。

(FMおたるパーソナリティー)
建設されたのが大正12(1923)年。

(石川)
そうです。99年前です。

(FMおたるパーソナリティー)
懐かしいと思う方も多いかもしれませんね。さて、変わってのコーナーに来ましたが、小樽という町が住民の手によって、自発的に都市化を進めたことについて紹介していますが、ここでは、聾(ろう)学校と育成院についての展示がありますが、民の力の象徴として、この展示を考えられたと思いますが、これはどういう考えからだったのでしょうか。

(石川)
いままでお話してきたように、明治の終わりから大正にかけて小樽は爆発的な発展をしていくのですが、その中で、もちろん経済的な成功を収める方もたくさんいますが、そこにうまく乗れなかった方たち、それから、その網からこぼれ落ちてしまう人たち、障害をお持ちで、その環境に苦しむ方たちというのも同時にたくさんいました。12万の町ですから。さらに、その周辺地区の人たちも、小樽に行けばなんとかなるだろうという思いで来る方たちもたくさんいた。そういうとこで、今で言うと福祉事業ですが、そういったところをまず民が始める。個人が私財を投じて始めていくというケースが多々あったという、その代表例として二つ挙げさせていただきました。

(FMおたるパーソナリティー)
民が私財を投げ打ってというところがすごいと思いますが、それだけ人のために、という思いが強かったんでしょうね。聾学校の展示物がありますが、これも小樽が先駆けなんですよね。

(石川)
学校形式にしたのは、北海道では小樽が一番最初です。寄宿舎を作って、子どもたちを預かって、そこで教育をしながらという形で、当時は視覚障害の子どもを預かっていましたので、盲唖学校でしたが、それを始めています。小林運平という個人が始めたのですが、本当に手探りなんですね。その障害児に対する教育のシステムというか、ノウハウがまだ全く北海道にない時代のことですので、いろんな苦労をされながらこれをやっています。絵はがきを1枚拡大して展示をしています。この絵はがきは、明治の終わりに、当時の皇太子、後に大正天皇になる方ですが、小樽においでになります。小樽においでになったときに訪問した施設が三つあって、それが盲学校、聾学校ですね、それと高等商業、今の商大、それと育成院。実は高等商業、小樽商大も作るに当たっては、市民が土地を寄贈し、それから建設費も寄贈し、半ば市民の力で作った大学、高等商業、学校ということになります。それを、その三つを奇しくも大正天皇は小樽に行ったら見に行こう、ということなるんですね。

(FMおたるパーソナリティー)
それだけ小樽に力があったということですよね。

(大原)
結構、有名だった、民の力でやるっていうのは、小樽といえば、みたいな。

(石川)
そうですね。特に育成院にしても盲学校にしても全道だけじゃないんですよ。東北からもやってくるんですよ。そういった整った制度、整ったシステムを持つ場所というのが、小樽が一番と見られるんですね。

(FMおたるパーソナリティー)
大正天皇もぜひそこを見てみたかったという思いがあったのかもしれないですね。さて、お話の中にありました育成院ですね。覚えていらっしゃる方も多いかもしれませんが、これは元々は奥沢にあったんですね。

(石川)
これ、正確に言うと2回目なんです。最初は、これを作られた方のご自宅でしたが、さすがに手狭になって、奥沢に土地を譲り受けて、奥沢の丘の上に、奥沢小学校の向かい辺りにありました。昔、バス停も育成院前でしたが、今は違いますけど、そこに作りました。育成院という名前が、今のお年寄りの方がお住まいの施設としては、ちょっと、という名前ですが、元々は孤児院なんですね。子どもを育成するための施設だったので育成院っていう名前だったのが、戦後、ご高齢の方のための施設に変わりますので、名前とちょっとちぐはぐに変わってきますが、元々は孤児院です。

(FMおたるパーソナリティー)
その恵まれない子どもたちのために、なんとか力を出したいという思いからだったんですね。

(大原)
作業している様子の写真がありますね。

(石川)
この施設、途中で小清水さんという方が経営に加わってから安定してきますが、小清水さんの考え方で、哀れな子どもとして育てたくない、ちゃんと手に職を持った自立した個人としてここを出ていってほしいという思いがあって、職業訓練にすごく力を入れています。

(FMおたるパーソナリティー)
その育成院の先駆けのところをご覧いただくという資料ですね。そして、いよいよ終わりの方に近づいていますが、小樽運河ですね。小樽運河も作られて、もうすぐ100年ということになっていますね。その運河に関する貴重な資料を、ご覧いただいているということですが、この運河保存運動ということで、小樽は全国的にまた町の名前が知られるようになったと思いますが、これはやはり運河の保存運動、小樽運河は小樽の町にもたらしたこと、いろいろなものがありますね。

(石川)
そうですね。端的に言うと、これがなかったら、この運動がなかったら、今の小樽はないと思います。これがあるから、小樽の知名度がすごく高い、ブランドとしての知名度が高くなっていると思いますし、この小樽運河保存運動が作り出したムーブメントというのは、いろいろな形で形を変えて残っているんですね。

(大原)
私も写真で運河保存運動のときのものを見たことありましたけど、行進とかしたりして、すごく活力的と言いますか、今ではちょっと考えられないなって感じがするんですよね。

(石川)
今回、市制100周年でサマーフェスティバルが復活しますが、サマーフェスティバルの母体になった、元になったポートフェスティバルっていうのがあって、あれはすごいですね。写真を見ると。運河沿いの道が人で埋まっているんですね。そのぐらい人を集めてしまうんですね。それは、いわゆる反対っていう声を上げるだけではなくて、運河を残した後どうするかという提案も含めた、こういう場所になるんじゃないか、小樽市民だけではなく、いろいろな人が集まる場所になるのではないかという提案をしたところが大きいですね。もちろん、それが実現しなかったものもたくさんありますけど、実現したものもたくさんある。それが今の小樽の町の姿になっているし、それが全国に波及していって、全国の景観を守る運動、古い建物を守る運動のモデルになっているところが大きいですね。

(FMおたるパーソナリティー)
そういう意味も含めて、小樽にもたくさんの方々がまた訪れるようになった。観光という形を変えてではありますが。また、小樽の町がこうガラッと変わったきっかけになったのではないかと思いますが、それにつながっていくのが、この日本遺産になってくるのではないかと思いますが、「北海道の心臓と呼ばれたまち・小樽」ということで、今、日本遺産の候補地域になっているわけですね。

(石川)
候補地域が3カ所ありまして、小樽と京都、千葉県の富津、鋸南という二つの町の3地区、そのご紹介を最後ポスターでしています。この3地域、今一所懸命に、3年間の2年目ですが、取り組みをしていて、来年は最終的な評価を受けるということになると思います。

(FMおたるパーソナリティー)
小樽ももちろんそうですが、それぞれの町で個性と言いますか、特徴がありますよね。一つ気になっているのが、この運河パズルですが、これって何ですか。

(石川)
これはですね、今回の企画展の準備の中で、都市計画の大学の先生とお話していく中で、その先生は、都市計画というものを子どもたちに理解してもらう、そういう装置を作りたいということで、パズルをお考えでしたが、そのパズルの教材として、うちの町を選んでいただいて、大変細かいピースですが、これを作り上げていくと1980年、運河論争の頃の運河とその周辺の倉庫群が復元できるという、そういうパズルです。

(FMおたるパーソナリティー)
かなり細かくて。しかも立体ですよね。

(石川)
角度を変えて見ていただくと、ちゃんと陰影が写って、立体的に見えるんですね。先生はこれを子どもたちの夏休みの課題にと、ちょっとハードルが高いかなと思います。

(FMおたるパーソナリティー)
夏休み期間中に出来上がりますかね。どうでしょうか。でも、こうした子どもたちが興味を持つきっかけになるものというのが、あるといいかもしれないですよね。

(石川)
運河も実は、保存運動があって今になっていますが、でも変わっているんですね。元々の姿というのは、やっぱりどこかで伝えたいなと思いますので、ぜひ興味があれば手に取っていただければと思います。

(FMおたるパーソナリティー)
さて、最後にご紹介するのが、これまた精巧な模型ですが、こちらも話題になっています。これはもう石川館長からご紹介いただいた方がいいかもしれませんね。

(石川)
北海製缶第3倉庫の200分の1の建築模型ですね。長さ100メートルという巨大な建物ですので、持ち運びの関係で100分の1にできなくて、200分の1で作りましたが、スパイラルシュートという独特のらせん状の製缶用のシューターも復元していますし、それから、人を作ってもらいましたので、会場に来ていただいて、人の大きさと比べていただくと、いかに巨大な建物かがわかると思います。この10年のこれをどう生かしていくのかというのが、小樽市と小樽市民の大きな課題になってくると思うので、これを見ながらいろいろなアイデアを考えていただければと思い、お借りしてきました。

(FMおたるパーソナリティー)
はい。200分の1の模型ですが、本当に精巧に作られていますので、こんなふうになっているんだというのを間近でご覧いただくことができます。また、人の模型もありますので、いかにその倉庫が大きいかということも、ご覧いただけると思いますので、ゆっくり見ていただきたいなと思います。
今日はいつもと形を変えまして、小樽市総合博物館の企画展の会場でお話を伺ってきました。さて、石川館長、この企画展なんですが、いつまで行われていますか。

(石川)
11月3日までです。

(FMおたるパーソナリティー)
はい、11月3日まで、ロングランの企画ですよね。

(石川)
毎週火曜日休館日ですので、それ以外は、この期間中他の休みはありません。午前9時半から午後5時まで。

(FMおたるパーソナリティー)
ぜひお越しいただきたいと思います。大原さんにもお話をお伺いしたいと思いますが、今日は石川館長に、特別にお話を伺ってきましたが、いかがでしたか。

(大原)
まさか解説付きで見る機会があるとはという感じもありましたので。本当に、贅沢な一日になりました。全然まだ今お話の中に取り上げられなかったものもたくさんあって、見ているだけでもかなりの見応えだなと思うので、皆さんにも、ぜひ見に来てほしいなという気持ちになりました。

(FMおたるパーソナリティー)
そうですね。ありがとうございます。今日は小樽市総合博物館の石川直章館長、そして小樽市広報広聴課の大原さんにお話をお伺いしました。石川館長、大原さん、どうもありがとうございます。

(石川・大原)ありがとうございました。

エンディング

今日は、いつもと内容を変更して、小樽市制100周年記念特別番組として、現在小樽市総合博物館で行われている小樽市制100周年記念企画展「百年の礎 北海道の心臓と呼ばれたまち」の会場で事前収録した内容をお届けしました。小樽市総合博物館で開催されている企画展「百年の礎 北海道の心臓と呼ばれたまち」は、11月3日、文化の日まで開催しています。ぜひ、博物館にお越しください。
この番組の再放送は8月10日(水)午後7時から、次回の放送は8月15日(月)午後2時からの予定です。
どうぞお楽しみに。
 

お問い合わせ

総務部 広報広聴課
住所:〒047-8660 小樽市花園2丁目12番1号
TEL:0134-32-4111内線223・394
FAX:0134-27-4331
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