公開日 2020年10月27日
更新日 2025年03月10日
(広報おたる平成15年6月号掲載)
小樽で地獄坂というと、前号で紹介した小樽警察署前の坂のほかに、に至る商大通りがあります。明治45(1912)年2月23日の「小樽新聞」には、この通りが地獄坂という名で登場しています。
この地獄坂の名の由来は、小樽商大の草創期の歴史と切り離すことができません。
小樽商大の始まりである第五高等商業学校が開校したのは明治44年。まちを挙げての学校誘致の成果でした。12,000坪の敷地は地主たちが寄付し、建設費37万円のうち20万円は小樽区債により賄われました。小樽区の年間予算が30万円でしたから、この金額がいかに巨額だったかが分かります。
渡辺龍聖(わたなべりゅうせい)が初代校長として着任したのは同年2月。当時は緑第一大通りから上には家がなく、「荒涼たる無人境の観」があったと彼は記しています。
地獄坂の深い雪をこいで上り、たどりついた渡辺校長が見たのは、校舎に黒板、いすや机すらないありさま。今後の苦難が思いやられました。
開校当初は教授、学生の住む家もなく、教授陣は直行寺(じきぎょうじ)で合宿し、学生は雨天体操場を仮寄宿舎として生活し始めました。全国から集まった一期生72人は、冬は深い雪の中を泳ぐように、そして夏は暑さに汗をかきながら、坂を上って通学しました。こうして学生を苦しめた坂は、開校当初から地獄坂と呼ばれるようになったといいます。


時は流れ、新しい校舎が次々と建てられました。昭和56年には旧校舎が解体され、創設以来の建物はすべてなくなりました。唯一、ギリシャ神話にちなんで「ヘルメスの杖(つえ)」と呼ばれる、旧校舎本館の屋根にあった避雷針が大学会館に展示され、開学当初をしのぶよすがとなっています。
取材協力:小樽商科大学 倉田稔教授