公開日 2020年10月27日
更新日 2021年01月14日
緑町から於古発川(おこばちがわ)に架かる洗心橋を渡り、すぐ右に曲がると、坂道がひたすら真っ直ぐに天狗山に向かって上っています。これが千秋通りの坂です。冬には街路樹のナナカマドの赤い実に積もった白い雪が美しいコントラストを描いています。
この坂は全長が1245メートル、こう配が最大で15パーセントあり、小樽でも有数の長くて急な坂と言えるでしょう。
「千秋通り」の名の由来を問われると、「通りに面している小樽工業高校が、昔、千秋高校という名前だったから」と答える方も多いのですが、本当はどうなのでしょうか。
昭和の初めまで、この辺りは人家も少なく、原野のようでした。この場所を住宅地として開発しようとしたのが、雑穀相場で巨利を得た『小豆将軍』こと高橋直治(たかはしなおじ)の息子の康世(やすよ)でした。彼が昭和6年に土地管理事務所として建てた白塗りの洋館は「千秋閣」と呼ばれ、これが坂の名の由来となったのです。
千秋閣は、明峰高校から下って左に曲がるところに昭和50年までありました。ちょうどバス停「千秋通」の海側になります。
宅地開発の結果、第二次大戦の直前から通りの両側にハイカラな住宅が並びはじめました。千秋閣は、個人住宅を経て、商大学長官舎になりました。隣の官舎には外国人教官が住んでいたこともあり、上品な住宅地の趣があったそうです。
この坂の近所にある法雷寺のご住職は、この千秋閣のことを「建物には塔があって、当時の10円札に描かれていた国会議事堂と似ていました。友達との間では、この建物を国会議事堂と呼んでいました」と、よく覚えていました。
また、ご住職のお母さんは、小学校高学年のとき、住んでいた同級のお嬢さんに招かれて一度だけこの建物の中に入ったそうです。この方は、「白く塗られた外壁がとてもきれいで、よく鈴の音を響かせて馬車が出入りしていたことを思い出します」と昔を懐かしんでいました。
後編は、坂の上にある小樽のスキーのふるさと天狗山スキー場を紹介します。参考資料・写真:「緑丘五十年史」(小樽商科大学)